昭和40年06月10日 朝の御理解



 めぐり観の御理解。御造園に関する事。 信心の道の深さとか、広さと言ったような、ことを申しますが、これはあの、信心に限らず何にしても、その広さとか深さとかというものは、やっぱりあると私は思うのですね。例えば、俳聖と言われた芭蕉が、晩年に残しております句の中に、「この道を来る人もなし、秋の暮れ」とかなんとか有りますね。この道ですかね。
 自分が俳句の道を極めて、こういう素晴らしい道が、こういう素晴らしいところにも、自分の心境が進んで行くのだけれど、皆が例えば、うんなら慰み半分のことで、自分のこういう素晴らしいところまで、皆がよう付いて来てくれないということを淋しく感じて、作った句だと言われております。「この道を来る人もなし、秋の暮れ」とね。例えば俳句の道でもそうでありますけれども、信心の道はもっとそうだとこう思います。それはなぜかというと、そのう目に見えない世界、言うならば魂の世界、目に見えないところの世界ですから、この広さ深さにおいては、もう限りがない。
 まして、これを、例えば、霊の世界などと言うて来る事になったら、いよいよ深いものになる。例えば、めぐりということを申しますが、めぐり観ですよね、めぐりの見方と、めぐりを感じると言う事になって参りましたら、もう愈々限りがない、ね、けれども信心をさして頂くなら、いわゆるここのところを分かっていかなければです、本当のおかげの道に出る事は出来んのです。
 「やれ痛や今みかげをという心になれよ」と仰る御教えなんかありますよね。例えばそのめぐりによって、ああ、痛いと言う様な事が起こって来る。巡りによって本当に難儀なことだというようことが起こって来る。けれどもです。ね、よくよくここを分からせて頂いたら、それは、めぐりのおとり払いであるから、「有り難いと心得て信心せよ」と、言う様な風に頂けるんです。ね。
 私は今朝方からうちのことも、夕べ一晩中その頂いておるもう本当に今思い出させて頂いても、もう悲しい苦し、お夢だった。本当に悲しい苦しい本当その二つを、の言葉をもってしなければならんようなお夢だった。私はあのう先日でしたかここの椛目の大体村内の方でしたけれども、すえな末安さんと言う方が、今福岡へ行っております。また椛目にはあのう一番ここで古いのは、その末安の家と大坪家だそうです。
 さてその方から、聞かせて頂いたんですけれども、先日何事からかその自分の先祖のことを調べなければならないと言うので、私の先祖のお寺で、その調べたところが、その椛目では大坪と末安が一番古い、その椛目で残っておるのは大坪だけだという事だったんです。それはですね、やはりあの国の有馬藩に仕えた士族らしいですね。それはもう微碌です。もうほんとに低い身分の侍なんです。
 私共が二十七石と7人扶持という事になっとるそうです。そして末安さんの方はそれに仕えるまた、その武士だったらしいですからもっと低かったらしいですね。こっから毎日、その、久留米に通たことやらが、ずっと、そのう残っておるそうです。お寺さんに、記録が、初めて、その私聞いてほう私の先祖はんなら、そのう士族だったなと。いうことをまあ、聞き知ったぐらいでございますけれども、ほんとに、機会があったらいっぺん、お寺さんですけど(笑)見せてもらいたいと思っておるんです。
 ほんとに私が知っておるのは、確かにあの、物持ちであったということ、私どものまあ、二代ぐらい前まで。まあそれこそ贅沢の限りを尽くしたということが、、のう残っとります。あと、言い伝えられたのです。それこそ、お話にならんような、贅沢をしております。それはですねちょうど、その、私の様であり、先祖の様であり、チョンマゲを結うとるんです。私の様な感じだけれども、お夢の中でですね。
 それでそのふとした事からその、この相手を言わば相手の武士なら武士を突き落としてですね、そして、自分がそのまあ儲けておるという訳ですね。ところがです。その後なんですねその後が、まあその自責の念というかまた事実の上にその、その罪に問われてその罪に追われぬいておるというお夢だった。私はもう本当にその、自分でそういう例えば、罪を犯したことも無いし、また。
 追われたこともございませんから、その実感というもの無いけども、夢の中に感ずる実感というのは、ああだろうと、こう思うんですね。ひとたび人間がですね、その、例えば、罪を犯して、そして、逃げ惑わなければならない、というような事になりましたら、大変な苦しみなんですね。それこそ、そよ吹く風でも、もう追うて来ておる、その、役人ではなかろうかと、こういつもビクビクしておらんならん。
 私が大変面倒を見ておる見ておった、そのうまた私のことの為になら、ほんとにそのいまあ大げさに言うならもう命でもと思う、言うてくれるぐらいに一生懸命なっておる、という人の家に、私がそのまあ「かくもうてくれ」と言って行ってるらしい、行ってる模様なんです。ところがその、今あなたのことでは役人があなたを探し回っておるんだと、だからあなたは自首しなければいけんとというふうに、まほんと言うなら、そのう「自決しなさい」と言うて、私に短刀をと言わんばかりにですねくれるんです。
 というても自決する、その勇気がないもんだから、またそこを逃げてですね、そしてそのう、やはりあの罪を犯しますとね、最後には自分の古里へ、舞い戻ってくると親に会いたい子供に会いたいと、自分の故郷を何とはなしに、懐かしそのう何ともと言うよりもとも、とりあえずたまらんごと懐かしくなると。そしていさぎよう自首しようと言った様な場合には、必ずそういうような、ことらしいんですね。
 私はそのいわゆる私の、いわゆる里に帰って家内に詫びておる、そしたら家内がもうほんとにあなたのおかげで、もう家中の者がこういう恥ずかしい思いをして、まあほんとにあなたのために、途端に苦しみをせんならんと言うてからに、あたくしの頬べんたを家内がもう、嫌と言う程叩く。あたくしはもうそれでも、ほんとにすまなかった、すまなかったと言うて詫びてその、私はまた出て参ってある広場へ参りましたら、子供たちがこう言うなら遊んでおる中に、あたくしの子供が遊んでるわけなんです。
 はあ誰々だ、今日はそのまあ言うて向かってそのうあたくしがそのう、誰々じゃないかと言うて別れを惜しむわけにもいかんのです。ですからその後ろ姿を見ながらそこを走って逃げるようにして、私はほかんとこそこの子供のおる場から、逃れておると言うような、お夢であった。まあそれがもう長々とですね、そしてそのまた夢で目が覚めて、はあ夢でよかったと思って目が覚めたら、また続きのお夢を頂いてるんです。
 今朝方までそしたら私の寝る3畳で猫がそのネズミを獲ってくるんですね。あのネズミをの頭を取って食わず食わず、指で踏んでおると、そしてその頭を取っておいてから、もうその、なぐさんでるわけなんですね。ネズミを獲った、お尻をばっと手で押さえてから、こう動かしませんのです。むごたらしいと言うか、そうあの宿命というものなんですね。ネズミが猫に追われると、それは宿命ではありましてもです。
 何か知らんけれども、何かその夢からそれを、こう考え合わせてですね、何か知らんけどもう本当にお話だけでも、苦しい夢であり苦しい悲しいお夢であった。私達がもうほんとに、もうそれではなくてもめぐりの深い私達、もうこれ以上めぐりを積むようなことがあっちゃならんな。それが例えば、ね、儲け出すために人の茶碗を叩き落してまでと、人を例えば蹴落としてからでも、自分がよい地位になろうとしたり、ね、
 自分が金銭の例えば金銭欲とか物欲のためにです、人の難儀なんか考えもせずにです。例えばよし儲け出したところでです、その巡りは後に残り子や孫が難儀をしなければならないと言う事、しかもその巡りの苦しみというのはです。丁度私が夢の中に感じた様な、苦しみをまた悲しみを感じなければならないと。そこでんなら皆さんの所で夢の中でそう言う様な、シンに迫る様なですかね、苦しみやら悲しみではなくてもです。
 後でまあ難儀と感じることをまず、ちっとまず思わなきゃいけませんですね。でないと、難儀から今みかげをという心が、生まれてまいりませんのです。ね。例えば最近責められると、と言った様な事なんかは、もう追われたりその責められたりしておるようなもんです。人間関係の中にですどうしてこう言う様に、そのう様な事になって来るだろうかと、言う様な場合でも、それを私は思うてみなければいけないと思う。
 皆が例えばこの思うこと、欲を欲す例えばただの思いであるならば、これはもう我情でもなかなければ、我欲でもないけれどもそういうぐらつく様な我情であり我欲であり。いわゆる私利私欲のためのですね、巡りを作っちゃならないなと言う事です。教祖の神様が一番初めに神様からお知らせを頂かれてご普請を思い立たれた。建材も揃うて建てる材木も揃うて、何かと話が進んでるうちに、神様からお知らせがあった。
 不都合なことがあった。時に神様は言うておられますね、『棟梁の腹わた腐り』と仰っておられます。だから『この普請を差し止めよ』と仰った。ですからもう周囲の一切を押し切ってその代わり、大工が身代要ったとこだけはその見てやる、ね、それゆう風にいわば、過ぎる程のお金を払われて、材木は腐っても構わん、と言うてそのう御建築を思いとどっまっておられるところが御座います。教祖の神様の御伝記の中に、
『棟梁の腹わた腐り』と、ね、それは棟梁がどういうことをしたかというと、私利私欲の為に苦しむ、このう御造営のことについて、私利私欲を出したという事だったことらしいですね。私は椛目の御造営の場合でもそうだと思う、ね、私はもうそれは何時も思うんです。先日お金を貸して下さるという、銀行の方が見えられましてからまあ千万ばかり、現在のところ足らん様になっているから、それを出してあげましょう。
 ということからまあちと、二千五百万円ばかりはここに、あることになって、ね、それはこれからの皆さんの、献納も合わせてです。ね。例えばですからまあいうなら、どうしても三千万、三千五百万という皆も、建材が用材がです集まらなければならないと云うことは、いうならば三百人の人が一人に、十万円ずつお供えせなならんことになる。口でこそ十万円だけれど、ね、
 大変なことそれがんならこの三百人が二百人の場合で行くと、どれだけになるか百人の場合になったらどれだけになるか、五十人の場合だったらどれだけになるか、大変な金額になるんです。ね。それこそ一生懸命の皆の真心をです、浄財がです例えば幾人かのです、私利私欲の為にそれが行使される、と言った様な事であったら、神様に対して相すまんだけではない、その真心信者さん方に対して、私は相すまんとこう思う。
 あたくしは今度の工事で、もしその様な事を感じたら、いつでもやめたいと思うとります。ほんとに。ね。これは金銭の事だけでは有りません幹部のことだって、同じ事自分のいわゆる我情、自分の感情と自分のそのように、思うてからのための、腹立ちならいざ知らずです。うん樺目の事を思うてからの、腹立ちならいざ知らず、ところが自分の顔を潰したとか、自分のことをああ言うたとか、私は心外なことを昨日聞いた。
 私は二、三日前にこの業者の方と、いわゆる信心の無い方で業者の方ですから、いわゆるその人と差し向かえでなからなければ、話されないこと話しておるところに、ある人達が入って来た、だから「あんたらちょっと遠慮しときなさい」ということ、話があったからちょっと遠慮しとくよう私が言うた。そしたらです。皆さん御存知のようにあたくしは、秘密主義じゃないです。
 もうどげなことでも、例えばこの頃業者とうちの最後の、金額をする時なんかはでは、業者に見せてはならない、業者には見せてならないものをです。それを委員長が持って来た時に、それを中座しようとしたけども、もういいですよとうちも大体あの話した事なんですから、却って見て下さったらいいんですよ。と言うてあの話が決まったぐらいでしたから、ね、けれどもこれは内々なのである。
 またそれはそれで反対のことである。だから「あんたがたちょっと、遠慮しとってくれ」と私が言うたら、どうゆう事かは聞きませんけれども、ね、いわば自分達を何と思とるかと思ったのでしょう。自分はここでこういう事しておるんだと、先生がそういうふうに言うた。と言うてそのう息巻いておった、という話を聞かせて頂いた。(舌打ちをされる)どうした事かと私が思うた、例えばそう言う様な事で、例えば感情でその感情を出すようなことではです。もうそれだけでもそれだけでも、いわば私利私欲に対するところの私情、私欲だと私は思うです。
 話がスムースに進むために、誰にも聞かせられないと云う話が、やっぱある業者との間に、ね、あたくしはそのすぐ後にその内容を、その時集まっとった者に実は話したんです。もうその事はけどその時には、聞いてもらったその話が無ければ、スムーズにいかないことがあった。あ、そうですか。と言って素直に聞いたらどこがどうあろうか、自分達は何て思うとる、例えていうならです、俺は総代だぞと、そんな話があるかと、云うような気持ちだったかもしれんけれどもです。ね。
 一番私は今日の夢から、感じさして頂くことはですね。公のこと例えば、公金を使い込む。ね。公のことをするのにいわばその、袖の下を貰うと公のことにです。ね。公のことに使う心がなくて、私心を使ってです。勘定以上と言う様な事はです。教祖の信心から言うても、ね、もう何何の腹わた腐り、ということになるんじゃないかと、私は思うのです。まあ実は言うと私、この度の事はそのくらいに慎重で、その位にあたくしは思うとります。もう建物ばっかりでは、いっちょんおもしろない、ほんなこつが。
 それはそうでしょう、三千五百万からあなた、口だけでは三千五百万だけれども、椛目の信者にとってはもう、大変な金なんですそれは、それは血のような金なんですよそれを例えば、私利私欲の為に、もし使われたらです。それを私情で使われたらです。感情でどうこうされるといったようなことであってはならん、どこまでも椛目の真を思うてから、そういう、疑問と申しますかね、疑問を感じると申します。
 こういうものどんなに起こったって、かまわんと私は思います、けれども、自分の、自分の立場とか、あたしの考えないじゃないですかと、あたしの顔を潰したと、といったようなことに、不純なもの、その中に入れたら、普通の寺のような御普請とは違う,椛目の場合には。ですから、そういう感情でも、あたくしは許してはならないと、というふうにあたしは感じるです。大変一番始めから申しました事です。
 後半に申しました事は、色々違うようでありますけども違う事じゃないです。そういう大事な公のことにです。で、作るめぐりは大きいということ、深刻だということ、そう云うた事がです。例えばあの分かっていくと言う事がこれなんかは、あのう疑うて掛ったらそげな事であるじゃろうか、と言う様な事なんです。ね。お役に立てばそれはそれぞれの人達の、まあほんとにそげなほんとに、恐ろしいものになるじゃろうかと、と言やあそこまでだけれども。
 例えば本当に、道の深さ広さという事だったら、そういう目に見えない世界を、実感する。いわばめぐりを実感する。ね。その巡りが例えばネズミの中に感じたような、悲しみであり苦しみであり、ですからそれほどの深い巡りにを持ってる私であるゆえにです。是以上の巡りを作る様な事があってはならんと、言う事になる時にです。本当の真心というものは、打ち出されるのじゃないだろうかと、あたくしは思うのです。
 『やれ痛や今みかげをという心になれよ』と、ね、というま私深い御教えだとこう思う、何故その痛い事に有り難いと言わにゃならんか、それはそれだけの事じゃありますまいけれどもです。巡りの元をお取り払い頂いておるのであるから、有り難いのであるということ、ね、その巡りというものはです。どういう時にどういう場合に、でけておるのかと、一番深いめぐりというのはどの様な場合かと、ただ生涯に何も、ね。
 賭け事をして儲かった、そんなもんじゃ意味が無い、いうならば道の悪い事をして、例えば儲かった金なんかというものは、そのめぐりのおかげで。どの位悲しい苦しい思いしなければならんかということ、神様の例えばね、神様神の悲願の叶うとかいう、氏子の願いが叶うという、氏子と神との願いがいっしょに叶うというほどの、ための御造営なら御造営という事においてですね。
 不純な私情が入ったり、私利私欲が入ったりして、もちろん、この御造営に傷がつくだけではなくて、不浄がかかるだけではなくてですね、その不純なものを水にしてもです。私はいうなら、悲しい、苦しい、めぐりの元を作るのであるからですね。信心の深さ、ほんとの深い、ことが分かれば分かるほどです。いよいよ、至心のもの、ね、
 美しい心、真心、ね、自分の考えなんか問題じゃないです。それが自分くらいのものの事であるならばと、というような思い方、頂き方を以ってです。進まなければいよいよいけんなと、いったようなことを、もうほんとに、思い出しただけでも悲しゅうなる、思い出しただけでも苦しかった、夕べの一晩中のお夢の中からです。そんなふうに私感じ、さして頂いたんですけれどね。
   おかげ頂かなければなりません。